人を信じるか、疑うか。性善説か、性悪説か。残酷なまでに、人間性を二分割する、古からの命題である。
まず、自分はどうか。私は、信じる方か疑う方か、と言われれば、基本、疑ってかかる方である。
何故か。
それは、私にとっては疑う方が「楽だから」だ。期待しない、と言い換えてもいいかもしれない。
時には「信じる」こともあるが、それは、仮にダメでも、自分にダメージは少ないと判断した時や、自分なりに最低限の保険を掛けた時くらいで、形式上信じただけのことである。なので、やはり基本は「信じていない」。
そして、この心理を深堀すると、実は「裏切られたくないから」という、本音を覗くことになる。
だからこそ、めったにないが、自分の想定を外れ、「裏切られた」時はひどく落ち込む。ある意味、疑う人間とはロマンチストなのかもしれない。
では、逆に「信じる」人間はどうか。
私の周りにも、何人かそういった人種がいる。とりあえず「信じる」という人達だ。
この立脚点からして、「信じる」という行為は、私には到底真似できないものである。真似たくもないが。
ただ、世間的なイメージからすると、
信じる人は、善で、疑う人は、悪、とまではいかなくても、マイナスなイメージがあるが、私からすると、単に、感性の違いでしかないように思える。
信じる人は、信じる方が「楽だから」信じるのだ。疑うことをしんどいと感じるからだ。
逆に私は、信じる方が疲れる。だから疑ってかかる。
よって、これは「好みの問題」であり、どちらが正しいとも、正しくないとも、いうような問題ではない気する。
哲学者が余計なことを言わなければ、こんなに何世紀も議論になるようなことでもないと感じる。
世の問題の多くは、哲学者、というか暇人が作り出しているのではないか、そう思ってしまった。
だが、「楽ではない」と感じながらも、信じる人もいる。
「楽ではないない」と分かっていても、あえて疑う人がいる。
こういった人たちは、かつて酷く裏切れたけれども、それでも貫く覚悟をもった人たちだと思う。
私の知り合いにも、片手で足りる程度だが、確かにそういう人はいる。
40年生きてきて、片手程度だ。
もしそう感じる人と出会えていたら、大切にしよう。
人生の師匠は、気づかぬうちに失いがちだから。