はい、信じません。
一行で終った本日のブログ。ついに最短記録更新(5秒)。感慨深い。
ではあれなので、続きを書く。
ことの発端は先日のとある飲み会。そこで、この話題になった。
どうやら、私が10年近く前に言った「霊など信じない」発言を、いまだに覚えていたらしい。執念深いものだ。
「じゃあさ!?霊は信じないけど、10年前に潰れたホテルに深夜一人で行ける?それは怖いと思うでしょ?」
「はぁ、まぁ」
「それはね、心の奥底では霊を信じてるからなんだよ!」
という、論理の飛躍した話を、延々と聞かされてしまった。
何を信じるかは、宗教と同じで、本人が自由にしたらよろしい。
そんなものは、今までの人生の体験で変わるだけだ。霊を信じざるを得ないような経験をした人は信じるし、そうでない人は信じない、それだけの話である。
いつも思うのだが、なぜ、この手のタイプの方は、自分の思想を押し付けてくるのだろう。酒の肴、といえばそれまでかもしれないが、私は、結論ありきの会話より、マトモな議論をする方が好きだ。
人が暗闇を恐れるのは、治安的な意味や、そもそもDNAに刻まれた本能的なもの(エビデンスがないという意味では、同じオカルトだが)という理由でも、説明がつく。霊を恐れているから、というのは、決めつけに過ぎない。
と話すと、
これだから頭の固い人間は・・・。
はぁー、とため息をつかれてしまった。頭にブーメラン刺さってますよ。
そもそも、私は「いない」とは一言も言ってない。「信じない」と言ってるだけだ。だから、そういう考えの有無で、話は終わる。
だが、相手は、「いる」「いない」という、存在の有無で、決着をつけようとしている。だから、互いが平行線で終わるのだ。
それからも、霊がいることの証明として、「茶碗が急に動いた」「人の姿が鏡に映った」など、色々な話が続く。
そうだ、そうだ、と賛成派は盛り上がっていたが、反対側からすると
正直、全部「思い込み」でないかな、と感じてしまう。
私自身、仕事で2徹した時や、精神的に追い込まれたときに、幻覚的な体験をしたことがある。そこまで、自分の脳を信じられない。人は、自分が見たいものを見るし、自分の本心なんて、それこそ理解してない時もある。
それと、この手の話になると、「科学では説明できないこともあるんだよ!」と、よく言われるが、それは充分に承知している。
むしろ、科学で説明できないレベルなのに、世の中では説明できることになってる事柄が多すぎると感じるくらいだ。
だから、「いない」とは言わないのだ。信じる、信じないと、いる、いないは、別の議論である。
誰かと議論をして、決着が平行線になろうとした時、そもそも互いの前提条件がずれてないか、と振り返るのは、プライベート、仕事、両方において大事である。
と、このような冷静な考察記事を書いているが、私もその場では、
「うーん。そういうこともあるかもしれませんね!で、あの話なんですけど・・・」
と別に話題に興味をふって終わりである。相手も忘れているだろう。
過ぎてから、わざわざブログのネタにする私のような人間こそ、まさに亡霊のように執念深い存在。現代の闇、といえるのかもしれない。(意味不明)
では。