人生100年時代とは、誰にとっての人生100年なのだろうか

人生観・仕事観

先日から、老後は年金だけだと2000万円不足する、という話が話題になっているが、今度は、フリーランスの場合、2000万どころか5000万円足らない、という計算が、一部で話題になっているらしい。

2000万の時も記事を書いたが、この5000万という話も、私にはよく分からない。

とりあえず、「年金だけだと充分とはいえないよ」というのは分かる。

が、なぜいつも「平均値」で議論するのだろう?

今の世の中、いたるところで、多様性、多様性と、叫んでいるではないか。多様性とは、つまり、「みんな個々で事情は違うね!」ということを、しっかり認めよう、という流れではないのだろうか。

ならば、平均値で論ずることなど、意味はないと私は思うのだが違うのだろうか。専門家ではないので、正直よくわからない。

先日のテレビでも、政治家が、「でも平均値で議論するしかないでしょ!」と声を荒げていたが、私には、数字が独り歩きして、本質が伝わらないように感じる。

実際、皆、「2000万」というキーワードしか頭に残ってないように思う。

件の金融庁の報告書でも、確かに「平均して2000万不足する」という点にも触れているが、そこは重要ではなく、結論として、それぞれ「生活に求めるもの」は個人で違うのだから、全体の状況を理解した上で、自身にどれだけ生活費が必要なるか一度、試算しておき、今後、貯蓄が必要か、資産運用が必要かなど、考えおくことが大事だ、と結論づけている。

どうもテレビでは、この点をあえて無視しているような気がしてならない。

で、私は実際に、現在の父(年金は月17万円くらい)が、月10万以下の生活費で幸せに生きていることを考えて、

・マクロスライドで減額されても、節約生活してたら、多分、ギリ生活できる

・それでも不安はあるから、月5万くらいは稼げるスキルを常に身に付けておこう

と試算した。

私は特異なパターンかもしれないが、ようは、「個々で違う」という点について、もっとフォーカスした議論をすべきでないか、と思った次第である。

最初のフリーランスだと5000万不足する、という話に戻るが、そもそも、フリーランスということは、手に職があるという事である。

なのに、なぜ一般のリーマンのように、65歳以上から収入ゼロという試算をするのか、それが正直分からない。

普通に考えて、65歳でちゃっちゃと引退するフリーランスというのは、相当に貯蓄が出来ている 又は、老後も資金を稼ぐ算段が既に出来ている人間ではないだろうか。

逆にいえば、老後のアテがないフリーランスであれば、月に26万もつかう生活をするだろうか。

それこそ、月5~10万稼いで、国民年金と合わせて、生活すれば良い。

ついでにいえば、そもそも、そこまで資金を稼いでない人間が、100歳まで生きたいと思うだろうか。

生きたいから稼ぐのである。

体に不自由を抱え、生きがいもなければ、そんな無理をしてまで生きたくない、という人も、決して少なくないと思う。

タブーなのかもしれないが、もっと、死を肯定する議論も、出ても良いと、個人的には思っている。

将来、安楽死が認められるか分からないが、国のセーフティネットにも限界がある以上、時間の問題でないかなと、正直、考えている。

自身でリミットを決められるようになったら、もっと密な人生設計を、誰もが出来るようになるのではないだろうか。

どうせ、死は逃れられるものではないし、癌になるときは癌になるのだ。なんで私が、と嘆き悲しむ人を、仕事柄、いっぱい見てきた。だから、余計、そう思うのかもしれない。

気ままな独身一人暮らしだから、そんなことを言えるのだ。といわれそうだが、それは今、ちゅうど人生でカツカツの時期だから、余計そう思うのではないだろうか。

子供たちが大人になり、自身が老人になれば、また違う考えが生まれてくると思う。

現在の70、80の人も、全然元気だが、そんなに今後、何十年も生きたい、と皆が思っているように、私には見えない。

むしろ、もう充分に生きた。あとは幸せに終わりを迎えられればそれでいい、と考えている人も少なくないと思う。老人のかすかな望みとしては、死ぬ前に孫の顔は見たい、くらいが大半ではないだろうか。

私の親にはもう諦めてもらっているが。すまん。

そう考えると、医療技術が発達し、寿命100年が可能になった所で、皆がそこまで生きたいかどうか、というのは、やはり別の話でないか、と思う。

それぞれの意見交えて、個々の生きる意味を尊重する政策も議論して欲しい、というのは、私の過剰な願いだろうか、と思わずにいられない。そんな夜であった。