「無敵の人」よりも、無敵な人たち

人生観・仕事観

先日、川崎市で発生した19人殺傷事件。二人の犠牲者をだし、連日、痛ましい報道が続いている。この事件に関しては、犯人がそのまま自殺してしまったこともあり、「無敵の人」というワードがまた注目を集めている。

「無敵の人には勝てない」「無敵の人から身を守るにはどうしたらよいか」という議論や、「無敵の人で片付けてよいのか」という言葉自体に警鐘を鳴らす意見もある。

私はどちらかといえば、後者なのだが、ニュアンスが少々異なる。

「無敵の人」というワードは、2chのニュース系板でよく見かけたが、当時から、どこか違和感があった。

無敵の人は、君たちだろと。

今回のように、凶悪な事件が起きると、すぐにブログやニュースサイトが、犯人をネタに記事を書く。2chにスレも立つ。その内容の多くは、ただの「推測」だ。

ある意味当然である。ニュースで報道された内容だけ書くのであれば、だれも注目してくれない。

なので、事件がなければ、犯人を死ぬまで思い出すこともなかっただろう人達。何十年も会ってないクラスメートや教師、近隣住民の証言から、あることないこと膨らませて、

「犯行動機は〇〇が原因だった?」「少年時代の〇〇が引き金に?」と、

?を付ければ何でも許されるという免罪符で、記事を書きまくり、ネットで拡散する。おそらくは、自身に対しての、ささやかかなPVと注目を集めるために。

ワイドショーも同じでないか、と言われるかもしれないが、少なくとも、TVメディアは顔を出し、自分の言葉として発言している。責任、という点では、そこに台本のあるなしは関係ない。

だが、ネットメディアやブログ、2chのコメントは、その殆どが匿名だ。私の知る限り、殺人犯についてのデマが原因で訴えられたという事象は記憶にない。だから遠慮なく、裏付けもなく、誰もが自由にマウントをとれる。

さらに犯人が死んでしまったなら、もう抗弁するものは世界に存在しない。完全勝利だ。言いたいことだけまき散らして、ネットにゴミを残し去る。これぞ無敵の人。そう、私は思う。

そして、自覚なき「無敵の人たち」から生まれる同調圧力は、絶望を抱える人に、新たな闇を生んでいく。まさしく負の連鎖と、私は危惧している。

なぜ、私がそう思うのかというと、このような事件が起きると、社内でいつも、ニュースサイトやブログに踊らされて、あることないこと騒ぎ立てる連中が沢山いるのを、実際見ているからである。

彼女たちの中では、どこの誰ともしらない人間が、収益のために書いたブログが、まるで真実のように扱われている。もっとも、真実などどうでも良いのかもしれない。ただ悲劇に同情して騒ぎ、自分が「良い人間である」ことを確認する。そんな自慰行為が目的なら、挟むべき言葉は何もない。

願わくば、これから社会に出る若者には、会社に入ってもそんな人たちの意見に左右されず、自分を持ち、「無敵の人」に染まらないでもらいたい。そう祈っている。