「自分はあくまで自分」。本気で違う視点をもつのは難しい
こんにちは、さぼてんです。現代の仕事ではよく、
- 「従来の常識にとらわれるな」
- 「逆転の発想を持て」
- 「違う人の視点を持て」
と言われますよね。
でもこれ、分かったつもりになるのは簡単ですが、本気でやるとなると、中々難しいです。
それはそうです。
簡単に変わらないから「常識」なわけで。
逆に考えろ、違う人の視点で考えろと言われても、「自分は自分」なわけで。
中々、そんな切り替えはできない、と思うのが、普通じゃないでしょうか。
他人の気持ちを読み取るのも、難しいのに、その人の気持ちになるなんて、特に若い人にはできなくて当然です。
20分時間をずらすと、いつもと同じ道に、違う人がいる
しかし、ちょっとしたことで、違う視点を体験する方法があります。
それは、いつもと違う時間に、違う道を歩いてみることです。
私の場合、事故でしばらく車に乗れなかったので、一か月ほど、徒歩通勤をしたことがあります。
そのため、いつもより20分ほど、早く家を出る生活をしていました。
すると、ほんの少しの違いなのに、
- 集団登校する園児たち
- 会社の前を掃除している社長っぽい人
- いつも無人の畑を、耕してるお爺さん
など、いつもは全く出会わない人達を見かけることに気づきました。
都会だと、色々な人と出会うから、あまり実感がないかもしれませんね。
ですが、田舎生まれ、田舎の育ちで、毎日車通勤をしていた私には、
いつもと同じ道なのに、ほんの20分違うだけで、これだけ生活時間が違う人と出会える
というのは、少し驚きでした。
簡単に、違う視点を体験できる方法
そうなると、次は違う道を試してみたくなりました。
出社する時、帰宅する時、あえて、いつもと違う道、違う時間帯を試してみました。
すると、今度も、
- 空き家と思っていた家に人がいたり
- いつも気になってた変なオブジェ(失礼)がある家の、住人と出会ったりと
またまた新しい発見がありました。
そうか、私が知らなかっただけで、こんなに身近に、色々な人がいたんだな、と思うと同時に、
なるほど、これが「視点を変える」ということか、と気づきました。
一旦気づくと当たり前で、簡単なことのように思えますが、実際にやってみるまで、中々気づくのは困難です。
私は10年以上住んでいたのに、いつもの時間に出社している限り、全くこれらの人達に出会わなかったのですから。
違う視点の重要さは、情報化社会が進むにつれ、加速すると思う
乱暴にいえば、自分にとって出会ってない人、というのは、存在しないのと同じです。
どこかの国で、大勢の人が亡くなっても、悼みこそすれ、普通の人は、心がつらくなったりしません。
それが当たり前です。
しかし、私自身、WEBの仕事をしていて思いますが、ユーザーを全てIDで管理し、データとして管理する社会は、「データも人である」ということをつい忘れそうになります。
うまく言えませんが、今後、さらに情報化が進む社会を生き抜く上で、「違う視点」をもつ大切ささは、データが人であることを忘れないために、殊更重要なことのように思います。
しかし、冒頭でも述べましたが、違う視点をもつのは中々大変です。
自分は自分、人は人なのですから。
そんな時、ほんの20分でもいいので、違う時間に同じ道を歩いたり、同じ時間帯でも違う道を歩いてみると、今まで知らなかった人達、世界に触れて、違う視点をもつ大切さに、気づきやすくなるかもしれません。
ちょっとしたことですが。
なんとなく、試してみると面白いかもしれません。ぜひ一度、気軽にやってみてください。