私にとってだけの、母の日がある

人生観・仕事観

本日、TVニュースを見て、ああそうかと思いだした。今日は「母の日」だった。

私にとって、世間でいう母の日とは、随分前から、ただの日曜だ。具体的には、19歳の時、母がこの世を去ってからになる。

母は、私が幼いころから、重い病に侵されていた。「全身性エリテマトーデス」という膠原病だ。

自己免疫疾患の一つで、根本的な治療方法はなく、対症療法でしのぐしかない。

特徴として、極度の疲労感、全身の痛み、日光過敏、精神的不安による衝動的行動、などがあげられる。

この中で、特に周りに影響を与えるのは、「衝動的行動」だろう。

当時は病名さえ知らされていなかったが、母が情緒不安定気味である、ということは、なんとなしに察していた。

何歳だったか覚えていないが、かなり小さい時、母の実家に親戚同士で集まっていたら、母が急に癇癪を起こし、包丁を持ち出して、自分を刺そうとして暴れたことがあった。

また、年に1回くらい、急に家を飛び出し、帰ってこなくなったり(大体、深夜に戻る)、何故か急にハサミを持ち出し、自分の髪を切り刻み始めたこともあった。

こう思い出すと、中々強烈なように感じるが、まぁどこの家でも、大なり小なり、似た様なことはあるのでないかと思う。結果的に、家庭崩壊を起こしてないなら、それで良いのだろう。

自身、強く印象に残っているのは、つい母の日記を読んでしまった日のことだ。たしか、中学生くらいの頃だったと記憶している。

母はよく日記を書いていた。たまたま母が不在の日、日記が無防備なところに置いてあったのだろう。何事も好奇心旺盛な私は、つい、その中を見てしまった。そして驚愕した。

そこには、母が日々感じている後悔と、偽善に対する罪悪感が、重く綴られていた。

「先日は近所の田中さん(仮名)に、〇〇を差し上げた。これは、私は田中さんに〇〇をしてもらいたかったからだ。私は打算がないと、人に優しくできないダメな人間なのだ。死にたい。・・・(以下略)」

といった内容である。

私は、この時、「お母さん・・・。こんなにつらいんだ・・・」

とは思わなかった。

正直に言おう。私は、ただ

「ばかなのかな?」

と思ってしまった。中二病を拗らせた男子の戯言だと、聞き流していただきたい。

打算があるから優しくする。そんな当たり前のことに、本気で悩んでいる親が、理解できなかった。ましてや自殺を考えるほど悩むなんて。まるで別の生き物のように思えた。

病気とは、それほど人の思考を壊すものだということ、人間には色々な立場、考え方があること、当時、精神的に未成熟だった私には、そこまで考えが及ばなかった。

そして、元々、スーパードライな性格の私と、ただでさえ感情豊かな上に、心を壊し気味だった母とでは、共感性という意味で、溝が少しずつ広がっていったのも事実だと思う。

それでも、母は好きだった。情緒不安定になる時を除けば、とても優しく、料理の好きな、ひいき目なしで、理想の母親像だったと思う。

男は誰でもマザコンというが、それは私も例外ではなかったらしい。

私が後悔しているのは、二つだけ。

一つは、大学に合格し、初めての一人暮らしで、家具を買うのに付き合ってくれた母に、何日も家に泊まられるのを鬱陶しく感じてしまい、「もう一人で頑張れるので、帰っていいよ」と言ってしまったこと。その時の寂しげな横顔は、今も忘れられない。

そして、もう一つは母が亡くなることになった19歳のゴールデンウィーク。

私はもっと早く実家に戻ることもできたのに、友人たちとの麻雀が楽しくて、先延ばししていた。

そして、徹夜明け、父から電話で、「母が昨夜から行方不明である」という話を聞かされた。

私はすぐに特急に飛び乗り、それから数日、家族総出で探したが見つからなかった。

母の乗っていた乗用車は、事故車として、国道で見つかっていたが、肝心の本人がいなかったのだ。

家族は、おそらく事故を起こして、とんでもないことをしてしまったと、自暴自棄になったのではないか、と心配していた。

そして、警察から連絡があった。

母は冷たい体で、死体安置所で横になっていた。顔にはいくつか擦り傷があったが、殆ど綺麗な状態だった。

死因は溺死と聞かされた。川で見つかったのだという。

なぜ、と思う。

余程、精神的に動揺し、川際で転んでしまったのか。それとも、もういい、と思い、衝動的に自死を選んだのか。

分からないし、考えても詮無いことだ。私は母を闇から救うことはできなかったし、そのことに、2つ後悔がある。それだけである。

余談ではあるが、母の死に合わせて、「やはりそうでしたか」「そうような星はでていました」などと、結果論で予言めいたことを言ってくる母の嵌っていた宗教団体の連中が、死ぬほど目障りだった。以来、宗教を信じることはないと決めている。

母は亡くなってしまったが、私にとって母の日はある。

それは、母の命日である。

この日だけは、私は仕事がどれだけ忙しかろうと、実家に帰り、線香をあげ、父と酒を交わしながら、母の思い出話に花を咲かせようと、心に決めている。

既に姓が変わり、今では神奈川に住んでいる姉とも、この日はLINEで会話し、温かい家族の絆を感じている。

もう20年程続いている、私の家族しか知らない母の日だ。

私はまた母と出会うその日まで、続けていけたら良いと、切に願っている。