SNSによる文字の暴力について思うこと

人生観・仕事観

今朝、いじめに遭っている子どもを、SNSでサポートする団体の活動がニュースで流れていた。

SNSはいじめの温床というイメージがあったが、そのSNSで、子供を救えるというなら、とてもよい試みであると思う。

それにしても、最近の子供は大変だ。

私はいわゆる就職氷河期世代なので、一般的にあまり恵まれた時代に生まれたとは、いえないかもしれないが、

少なくとも、子供時代に、SNSがない時を過ごせたことは親に感謝したい。もしあったらと考えると、少々ゾッとする。

私の時代は、SNSはなかったが、1998年頃、ちょうど大学生がみな携帯電話を持ち始め、気軽に友人、恋人とメールで連絡がとれるようになった時代だ。

おっさんのひいき目かもしれないが、あのくらいが、青春時代を過ごすには、一番バランスがいいような気がする。

勿論、SNSのパワーで生まれる活動や、コミュニケーションという正の面も大きいので、何ともいえないが。

しかし、SNSのいじめというのは大変だろう。

「文字」というものが、時に、会話や暴力よりも、人を傷つけることを知っているから、余計そう思うのかもしれない。

私は仕事柄、一般のユーザーにも、よくメールを送る。相手は、主に病気で悩んでいる本人や家族である。

その時、非常に気を遣うのは、 言葉一つ一つの選び方、そして、テンポである。 特にテンポが一番重要かもしれない。

実際、ニュースで紹介されたいじめサポーターの方々も、相手に返事を送るときは、文章の「テンポ」に気を遣うと言っていた。

会話であれば、表情や声色で、ニュアンスが分かる。しかし、文字だけの場合、それ以外に情報がない。

文字というのは、書いた本人には想像もつかない程、読み手には、無感情に見えるときがある。

普段それを意識しなくても、上手く伝わるのは、相手が、親しい家族や友人だからだ。心根が分かっている同士だからだ。

これが、親しくない相手や、顔も見たことがない相手であれば、話が違ってくる。何気ない言葉で、相手を突きさすことがある。

個人的に気を付けている点は、文字であろうと、相手との「対話」を意識して書くこと。

たとえば、普段、相手を気遣いながら話す時、誰もが、ちょっと間を置いたり、わざと大げさに驚いたり、相手を安心させようと、笑顔になったりしているだろう。ようはそれと同じことである。テクニックと呼ぶようなものではない。

こんなメッセージが届いたらどう思うか、ここがちょっと気になったりしないだろうか、と何度か読み返し、自分自身、納得出来たらそれで送る。

その点さえ守れば、文字は、会話よりも温かいものになれると思う。

SNSの気軽さと両立させるのは、中々難しいものがあるかもしれないが、一人でも多くの人が、自分が読んで優しいと感じる文章を、送る世界になるよう願っている。