先日、朝礼で上司がスピーチをした。
いつもの1分間スピーチ。教本に書かれた、日めくりの小話を読み、自身の感想を述べるだけのたわいもない儀式。
だが、いつものように読み上げた後、顔を上げた上司の目に、涙が走った。
様子に気づき、周りもわずかに動揺していた。明らかに、泣くような話ではなかったからだ。
実によくある話。事実か創作かさえ、どうでもいい内容。
細部は覚えていないが、お客様からのクレームで、心身ともに疲れ切った女性が、もう会社を辞めようか、と悩み、公園で黄昏れていた時の話だ。
目の前で小さな女の子がころんだ。
その女の子は、痛みか、悔しさからか、目に涙をいっぱいためつつ、それでも泣くことはせず、へっちゃらだと言って、駆けていった。
そんな女の子を見て、女性は思った。
生きてたら、くじけることも、つらいことも、いっぱいある。
今日も、私はこけてしまった。その時は痛い。
でも、前を向いて起き上がらなくちゃ。あの女の子みたいに。
という話だったと思う。
やはり、書き起こしても、大した話ではない。何も得るものもない。イー話デスね、で終わる。普通の社会人なら大抵そうだろう。
事実、朝礼後に周りの人は、「どうして泣いたんですか」「むしろベタすぎて笑っちゃいましたよw」と、上司に笑いかけていた。上司は、「ほんとそうなんだけどね。なんでだろうね。つい泣いちゃった」と笑っていた。
その涙の意味は、上司と私しか知らなかった。
この朝礼の前日。それは、私が彼女に退職届を出した日だった。
むろん、彼女にはそれよりも以前から退職することは告げていた。
それでも、ハッキリとした形として、「15年一緒にやってきた部下の退職」を受け止めたのは、彼女にとっては、この日だったのかもしれない。
数日後か、数週間後か。分からないが、私の退職を皆が知ることになった時、多くが、あの時の涙の意味を知るのだろう。
誰にとっても、何でもない話が、今の彼女には、ピンポイントに心を突いた。
この時、思ったことがある。
私も、広告の仕事をする上で、「コピー」という分野に、少し携わってきた。セールスコピー、キャッチコピー、色々あるが、基本的に、それらには成功のテクニックが存在する。
勿論、一朝一夕で終わるものではない。切り口の考え方、言葉の散らし方、ブラッシュアップ、どれも、長年の経験で磨かれるものだ。
だから、どうしても、自分のコピーに自信が持てず、落ち込むときがある。世には、自分では到底届かないような素晴らしいコピーを書く人が沢山いるからだ。
しかし、コピーとは、文学ではない。
言葉と、その人のおかれた状況が、パズルのようにピタリと合う時、心は動く。それがコピーだ。
今回、上司を泣かせたのは、テクニックなんて何もない、標語のような、普通の話だった。
テクニックよりも大事なもの。
彼女の涙と、それを忘れないようにしたい。