今回の改革は、国も本気らしい
今日も19時までに帰宅した。
軽く夕食を食べた後、居間のソファに腰を沈め、WOWOWで錦織圭のテニスを眺めながら、のんびりブログを書いている。
数か月前には考えられなかった事態だ。
その頃は、早くても帰宅は20時ごろ。概ね21時が帰宅時刻だった。
今年4月から、働き方改革が実施されているのは、多くの人が知る所だが、今回は国も本気らしい。
わが社でも、私を含めた数名の人間に対し、
- 残業申請した時間を超えて作業するな。PCを切って帰れ。
- 申請した時間を超えるのが許されるのは15分まで。1分でも過ぎたら、労基署に提出する報告書を出せ。
と御触れが出た。
正論である。
反論の余地は全くない。
だが。
では仕事は終わったのか、と問われれば終わっていない。
当然である。
仕事量はなにも変わらず、会社の体制、人員配置も全く変わってないからだ。
会社はただ、労働基準監督者からお達しが出た通り、社員に指示しているだけである。
アホくさ。
会社の体制は変えないけど、今までどおり何とかしてね(ハート)
今回、指導が入った社員は、私も含めて、好きで残業していたわけではない。
中小企業あるあるだが、わが社も例にもれず、特定の人間に業務が集中している。
なので、定時内では、本来の業務に手を付けられない。
私は社内唯一のWEB担当者だが、通販の統括も兼ねており、コールセンターの受け手までやっている。
加えて、社長のそばにいるので、ひとたび指示があれば、全てに優先して、そちらの作業を行う必要がある。
急遽、テレビ番組の録画を頼まれ、動画編集をして社長に送る、なんて業務も日常茶飯事だ。
ちなみに申請が許される残業も、1時間までである。
にも、かかわらず、毎日それ以上残業をして、仕事を片付け続けたのは、
任せられた仕事は完遂したい、という責任感。
そして、自身の成長にも繋げられる、という向上心からにすぎない。
しかし、それがどちらも崩れた。
会社はその現状を知っていながら、体制の刷新という痛みを負うことはせず、
頑張ってる人間に、時間は制約するけど、さらに頑張れ
という選択をした。
やる気を失った社畜たち
するとどうなったか。
私を含め、御触れの出た数人は、互いに言葉を交わすこともなく、
キッチリ指示通り、時間厳守で帰る、という生活を選択した。
当然、終わらない仕事はそのままだ。
かろうじて保っていたモチベーションが、地の底まで落ちた結果だ。
今期の売上が楽しみである。
こう言うと、
「お前らみたいな社畜のための制度じゃないんだが?」
「早く目を覚ませよ、奴隷」
と、世間では言われるのだろう。
所詮、人生観はそれぞれなのだから、別にかまわない。
ただ、あえて言葉を選ばず、個人的見解を述べるなら、
私にとって、AIの導入が広がる現代でさえ、ただ与えられた仕事だけをして満足な、ロボットのような人間こそ、どうでも良い存在だ。
そういった人間に限りに、仕事に不平不満しか漏らさないが、
本当に死ぬほどつらいなら、さっさと辞めれば良い。
なぜそうしないのか、不思議で仕方ない。
私はただ、平穏な人生を望んでいる。
そして、平穏に生きるには、
人より一定以上、優れた位置にいることが最低条件だと、体験で知っている。
だから、常に自分を高める生き方をしたいだけである。
イケメンや美人は得だね、と人は言う。
勿論、彼ら、彼女たち特有の苦労もあろうが、それでも持たざる者から見えれば、
ずいぶんと幸ある人生に見えるだろう。
それは、人より優れているから、与えられた余裕だ。
平穏を生むのは、余裕である。
ボロを着てても、心は錦。という時代ではない。
一部のレアケースを引き合いに出すまでもなく、
金を失えば、心も貧しくなる。
誰でも分かる理屈だ。
私は、自由に仕事時間が選べる、独立の道を選んだ
私は、会社に期待するのをやめ、独立する選択をした。
これはこれで、個人的に良かったと思っているので、ある意味、国には感謝している。
しかし、ほかの同じような人間は、どの道を選ぶのだろうか。
数年後、答えはでるのだろう。
その時、日本がどんな国でいるのか。興味は尽きない。
最後に。
私は、定時後、15分以上残っている人間が大勢いるのに気づき、総務に突っ込んだ。
残業申請した人間は15分を超えて会社にいたらダメなのに、申請してない人間は問題ないのか?と。
総務は答えた。
「労働基準監督署からは、【残業申請を出した人間 】 に対しての指示しか受けてないから問題ない。」
アホくさ。
やる気のある人間は縛り、制度で守るべき人間には何もしない。
こんなザルなやり方を労働基準監督署は本気でやっているのか。
それとも、その程度のことさえ見抜けないボンクラ揃いなのか。
分かっているが、面倒が嫌で、見ないふりをしているだけなのか。
残念ながら知り合いにいないので、不可能だが。一度、本音を聞いてみたいものである。